「老いて死ぬこと」よりも、「誰にも看取られずに消えていくこと」のほうが、ずっと怖い──。
『ひとりでしにたい』というドラマを見て、そんなことを思ったのは、きっと僕だけじゃないはずだ。

たしかに、年を取るのは怖い。身体は自由がきかなくなり、できることも減っていく。
でも、それ以上に怖いのは、誰にも必要とされないまま、世界との接点を失っていく感覚なんじゃないか。

このドラマは、「終活」や「孤独死」という言葉を表面的に扱うのではなく、その裏にある人間の感情──
“つながりたい”という願いと、“迷惑をかけたくない”という諦念とのあいだで揺れる心を描いていた。

今日はそれについて、少し静かに考えてみたい。


なぜ“孤独”がこんなにも怖いのか?

老いは、時間とともに誰にも平等にやってくる。
けれど、“孤独”は、気づいたときにはすでに隣にいて、簡単には消えてくれない。

このドラマに出てくるキャラクターたちは、表向きは自立していたり、自由を手に入れたように見えたりする。
でも、ふとした瞬間に滲み出る“虚しさ”が、なによりリアルだ。

たとえば──

  • 誰かの帰りを待つ時間。
  • 誰とも交わさない夕食の静けさ。
  • 病院の待合室で、名前を呼ばれるのをひとり待っているとき。

そういう、ちょっとした日常の場面の中に、孤独の影は息を潜めている。

人はきっと、誰かに必要とされたいし、誰かに覚えていてほしい生き物なんだ。
「見送ってほしい」って気持ちは、死の瞬間だけの話じゃない。
もっとずっと前から、僕たちは“誰かとの関係”に救われている。


「ひとりでしにたい」という選択の裏にあるもの

タイトルにもなっている「ひとりでしにたい」って言葉。
一見すると、潔くて、覚悟があるように聞こえる。

でも、それって本当に“自分の意思”なんだろうか?

もしかしたら、「人に迷惑をかけたくない」という、長年染み込んだ社会的な遠慮が
そのまま“終活”に反映されてしまっているだけかもしれない。

本当は、誰かにそばにいてほしい。
でも、「一人でいいです」と言うことで、拒絶される前に自分から距離を取ろうとしている──
そんなふうに見える瞬間が、ドラマのなかに何度もあった。

自由な最期ってなんだろう。
自己完結って、本当に正しい選択なのか。
終活は、ただ「自分の死を準備すること」じゃない。
もっと深いところで、「誰と関わり、どう生きたか」を整理する時間なんじゃないか。


終活は“誰かのため”なのか、“自分のため”なのか

よく言われるのは、「終活は残された人のため」って言葉。

たしかに、相続や遺言、財産の整理はそうかもしれない。
でも、感情や記憶や後悔って、そう簡単にフォルダ分けできない。

このドラマでは、「ひとりで死ぬ人」だけじゃなくて、「誰かを見送った人」の視点も描かれていた。
看取るっていうのは、ただ最後の瞬間に立ち会うことじゃない。

「あのとき、もっと話しておけばよかった」
「最後まで本音を聞けなかった」

そんな想いを抱えたまま生きる人の時間も、終活のうちに含まれている気がした。

逆に言えば、終活っていうのは、「ちゃんと誰かに思い出される」準備でもある。
忘れられずに、優しく思い出される──その可能性を残す作業なんだ。


“孤独”とどう向き合っていくか

孤独って、避けようとすればするほど、より濃くなる気がする。
無理に誰かと繋がろうとしても、逆に虚しさが増すだけのときもある。

でも、物理的に一人でも、「自分の存在を誰かが思ってくれている」という感覚があれば、
その孤独は少しだけ、温度を持ったものに変わる。

今は、孤独=悪じゃない時代になってきた。
SNSでつながる関係も、オンラインで築く共同体もある。

けれど、最後に残るのは、たぶんすごくアナログなつながりだと思う。

  • 名前を呼び合える関係。
  • 手を握れる距離感。
  • 言葉じゃなくても伝わる、“あの空気”。

終活を「整理」じゃなく「つながり直す時間」と考えたら、
孤独と戦う必要なんてなくて、ただ静かに向き合えばいい。


孤独死を避けたい、ではなく「孤独を見つめて生きたい」

「孤独死を避ける方法」とか「終活のやり方」って検索すれば、いくらでも情報は出てくる。
でも、たぶん多くの人が本当に知りたいのは、「この不安の正体」と、「じゃあ自分はどう生きていけばいいのか」。

答えは一つじゃないし、きっと完璧なやり方なんてない。
けど、ドラマが投げかけた問いに対して、「怖い」と感じるその感覚があるなら──
それはもう、何かが始まっている証拠だと思う。

“終わり方”を考えるって、“今どう生きるか”を考えることと同じだ。

「ひとりでしにたい」と願うのではなく、
「どんな自分として、最期を迎えたいか」を考えること。

そこに、“つながり”はまだ、残されている。


あとがきに代えて

ぼくはまだ若くて、終活なんて現実味はない。
けど、「老い」や「孤独」が“他人ごとじゃない”って感じたこのドラマには、
どこか「未来の自分」に対するメッセージのようなものがあった。

自分が死ぬとき、誰かの顔が浮かぶか。
そして、その誰かの記憶に、自分がちゃんと残っているか。

それだけで、生きる意味って、少しだけ見えてくるのかもしれない。